当時の上司のことを、私はずっと「面倒見がいい人」だと思っていた。
よく声をかけてくれたし、よく話を聞いてくれたし、私の頑張りを評価してくれているように見えた。
でも、今振り返ると、その関係は少し違っていたように思う。
上司は私の“頑張り”を必要としていた
上司は、私の“頑張り”を必要としていた。
私が頑張ることで、上司自身が得をするような構造があった。
心理学では、こうした人を 「テイカー(奪う人)」 と呼ぶことがある。
相手の優しさや努力や献身を、自分の安心や利益のために使ってしまう人のことだ。
意図的に奪っているわけではなくても、結果として相手を疲れさせてしまう。
上司はまさにそのタイプだったのだと思う。
それに気づかず、私はずっと上司のために頑張っていた。
頼まれた仕事はすぐに終わらせる。
困っている様子があればすぐに助ける。
上司が喜びそうなことを言う。
上司の機嫌が悪そうなら空気を読んで動く。
これらは社会人としてある意味、普通のことかもしれない。
でも私は、それを 自分を犠牲にしてまで やっていた。
なぜそこまでしていたのか、正直わからないが、私はその関係の中で、静かにすり減っていった。
私の頑張りは“資源”だった
上司は、私の頑張りを“資源”として使っていた。
私が動くことで、上司は自分の仕事が楽になる。
私が支えることで、上司は自分の評価が上がる。
私が前向きでいることで、上司は「良いチームを持っている上司」でいられる。
ある時、その構造に気づいてしまった。
私は上司のために頑張っていたつもりはなかった。
でも、結果として、私の頑張りは上司のために使われていた。
あの時の自分にこう言いたい。
「あなたが頑張ることで救われる人がいる一方で、あなた自身が傷ついているんじゃないの?」
「あなたの頑張りは、あなた自身のために使っていい」
「誰かの安心のために、自分をすり減らさなくていい」
まとめ
上司がテイカーだったことに気づいた時、 私はようやく、自分がどれだけ“奪われる側”にいたのかを理解した。
それは、突然の気づきではなく、ずっと感じていた違和感が、ゆっくりと形になっていった。
誰かの安心のために頑張り続けることは、一見すると優しさや責任感に見える。
でも、その頑張りが自分をすり減らしているなら、それはもう健やかな努力ではない。
今ならわかる。
頑張りは「誰かのため」だけに使うものではない。
自分のために使っていいし、自分を守るために使っていい。
奪われる側に立ち続ける必要はない。
自分の力を、自分の人生のために使っていい。
そう思えるようになった今、私はようやく、自分の頑張りの使い道を選べるようになったような気がする。

