小学生の頃、私は給食が苦手だった。
小柄で小食だった私は、「給食は全部食べないといけない」というルールを前に、毎日プレッシャーを感じていた。
食べ終わらなければ、午後の授業中も、掃除の時間も、ずっと机に座って食べ続けなければいけない。
あれは、“処罰”に近い感覚だった。
周りが掃除をしている中、ぽつんと給食を食べ続けるあの時間…
今思い出しても、当時の自分がかわいそうでならない。
給食の時間を乗り切るのに必死だった
給食は、ただの昼ごはん。
ほとんどの子がそう思っていたはずだ。
「やったー!給食だー!」と嬉しそうにしている子もいた。
でも私にとっては、
・学校に行きたくないと思うほどの壁
・1日の中で最も緊張する時間
・「また今日も食べられないかもしれない」という不安
同じ教室にいても、同じメニューを前にしても、その出来事が持つ“重さ”は人によってまったく違う。
あの頃の私は、ただ必死だった。
毎日、給食の時間を「どう乗り切るか」ばかり考えていた。
パンは持ち帰ってもいいルールだった。
だから私は、1か月分の給食メニューのプリントをもらうと、真っ先にパンの日をチェックしていた。
「ここは安心できる日」
「ここは逃げ道がある日」
パンが減れば、だいぶ食べる量が減るので、なんとか食べきれないこともない。
でも、パンじゃない日をなんとかしなければいけない。
だから、私はクラスメイトと交渉していた。
「今月のメニューの中で、好きなものある?もしあったら、わたしの分をもらってくれない?」
「この日のデザートのプリンをあげるから、この日の魚をかわりに食べてくれない?」
そんな取引を、子どもながらに真剣にやっていた。
毎日、頭の中は「どうやって給食を乗り切るか」でいっぱいだった。
同じ出来事でも、人によって“影響度”は違う
同じ出来事であっても、ある人にとっては軽い出来事が、別の誰かにとっては心を揺らすほど重いことがある。
これは、歳を重ねた今の私が、日常のあらゆる場面で感じていることだ。
・同じ上司の同じ一言でも、軽く受け流せる人もいれば、その一言が頭から離れず、夜眠れなくなる人もいる。
・人と話すことが好きで、雑談が息抜きになる人もいれば、その時間が苦痛で仕方なくて、ずっと緊張している人もいる。
・プレゼンの場で、堂々と自分の意見を主張できる人もいれば、その場に立つだけで体と声が震える人もいる。
思い返してみると、子どもの頃の世界でも、同じように“影響度の差”があった。
・体育の時間が楽しみで仕方ない子もいれば、運動が苦手で、体育の時間になるとお腹が痛くなっていた子もいた。
・部活が生きがいの子もいれば、上下関係や練習の厳しさがプレッシャーで、行きたくないと言っていた子もいた。
・テストが「自分の力を試す場」だとワクワクする子もいれば、テストが近づくと憂鬱で仕方ないと言っていた子もいた。
同じ出来事でも、そこに感じる“重さ”は人によってまったく違う。
それは、背景、体質、経験、価値観がすべて違うからだ。
自分にとっては軽々と越えることができるハードルが、別の誰かにとっては人生最大のジャンプになることもある。
そして、その逆もある。
自分が苦しんでいることを、他の人はまったく苦にしないこともある。
その差を前にすると、つい自分を責めてしまうこともある。
「みんなはできてるのに、なんで自分はできないんだろう」
でも、そうじゃない。
人はそれぞれ違う世界を生きている。
違う体で、違う心で、違う経験を積み重ねてきた。
だから、同じ出来事でも“影響度”が違うのは当たり前だ。
自分の感じている重さを軽視しない。
そして、他人の感じている重さを軽く見ない。
この2つを意識すると、人との関わり方も、自分との向き合い方も、ずいぶん優しくなるのではないだろうか。
まとめ
小学生の頃の私は、給食を食べられない自分を責めていた。
でも、今はこう思っている。
給食は、私にとって本当に大きな壁だった。
その重さは、誰とも比べなくていい。
私にとって、すごくハードで大変なことだったのだ。
子どもの頃の出来事が、大人になってからの気づきに変わることがある。
あの給食の時間は、私にとって“悟りの入口”だったのかもしれない。

