PTAや町内会などでは、いろんなバックグラウンドの人が集まる。
その中でよくあるのが、PC作業の得手不得手によって、資料作成の担当が決まるという流れだ。
私はその“PCができる側”の人間だ。
だから、資料作成を引き受けることが多い。
そして、このとき、よく不思議なことが起こるのだ。
専門の仕事を引き受けても、免除されない不思議
PC作業のような専門的な仕事を担当すると、その分、他の「みんなでやる仕事」は少し軽くしてもらえるのかな、と思う。
例えば、各種イベントの買い出しだったり当日の雑務などは、専門担当以外の人が中心になるのが自然な気がする。
でも現実には、そうはならないことが多い。
専門の仕事を引き受けたうえで、なぜか「みんなでやる仕事」にも普通に参加する流れになる。
PC作業を担当している人も、買い出しに行き、当日の雑務もこなす。
一方で、専門の仕事を引き受けていない人は、「みんなでやる仕事」のみをやる。
専門担当だけが二重の負担を抱える構造が、なぜか当たり前のように成立してしまうのだ。
「みんなでやりましょう」が生まれる心理
なにかをやる時には、人数が多いほうが安心できる。
一人で動くと、判断やトラブル対応をすべて自分で抱えることになるけれど、複数人で動けば、迷ったときに相談できるし、
予想外のことが起きても誰かが対処してくれるかもしれない。
これは、集団の中で自然に働く“安全確保の心理”だ。
さらに、責任を薄めたい気持ちもあるはずだ。
「みんなでやれば、もし何かあっても自分だけの責任じゃない」と感じられる。
人数が増えるほど一人ひとりの負担感が軽くなるのだ。
これは、“責任分散”だ。
また、誰かが「こうしよう」と言ったとき、その提案に乗ることで場の一体感が生まれ、自分の判断に自信が持てるようになる。
これを、“同調の安心”と言うらしい。
つまり、「みんなでやる」という選択は、心理的に安全な選択肢なのだ。
こうした心理が重なることで、「みんなでやりましょう」という空気が自然に生まれるのだと思う。
しかし、やはり変だ。
専門の仕事は専門担当がやり、専門外の仕事はみんなでやる。
これは、専門担当だけ負担が増える仕組みになっている。
それでも場では、「みんなでやったほうが安心」という心理が全面に出るため、その違和感は表に出ないままになってしまうのだろう。
察してほしいけれど、察されない
専門的な仕事を引き受ける代わりに、みんなでやる仕事を少し免除してもらいたい。
でも、自分からは言い出しにくい。
「言わなくても、気づいてくれたらいいのに」という気持ちがある。
けれど、現実にはなかなか察されない。
私は、その理由はとても単純なんじゃないかと思っている。
それは、PCが苦手な人には、PC作業の大変さが想像できないということ。
資料作成やデータ整理といった作業は、やったことがない人にとっては何をしているのかがわからない。
だから、どれくらい時間がかかるのか、どれくらい細かい調整が必要なのか、どれくらい神経を使うのか、その負担の重さがイメージできない。
人は、自分ができないことほど、「得意な人なら簡単なんだろう」と勝手に思い込むところがあるのではないか。
できる人でも、時間を使うし、面倒なところもあるし、頭を使う部分もある。
でも、そこは想像されない。
結果として、できる=負担ゼロ扱いになる。
だから、「察してほしい」が届かないのではないだろうか。
「私はPCを担当しているから、他の業務の負担を少し軽くしてほしい」と主張すれば、おそらくその主張は通る。
でも、そうすると、私はわがままな人になってしまう気がするから言えない。
あくまでも、誰かに察してほしいのだ。
そして、こう思っている私自身も、結局は”人間のよくある心理”に引っ張られているんだと思う。
自分の負担を言葉にするのは気が引けるし、できれば誰かが気づいてくれたら嬉しい。
言わずに伝わることを、どこかで期待してしまう。
察してほしいけれど、察してもらえない。
言えば理解してもらえるのはわかっているけれど、言いたくない。
人は、言われないと気づけないことがあるし、言いたくない気持ちもまた、人間らしいものだと思う。
だから、専門担当が二重の負担を抱える構造は、ある意味しょうがないことなのかもしれない。
まとめ
特定の技術や専門性を持つ人は、専門的な仕事を任されやすい。
そして本来なら、その分ほかの作業は少し軽くなるはずなのに、現実にはそうならないことがある。
その理由は、専門外の人にはその作業の大変さが見えないからだと思う。
やったことがない作業は想像しづらく、得意な人は「簡単にできる」と思われてしまう。
結果として、専門の負担が“ゼロ扱い”になり、専門担当が二重の負担を抱える構造が生まれる。
負担を軽くしてほしいと言えば理解してもらえるのはわかっている。
でも、言いたくない。
できれば察してほしい。
けれど、察されない。
だから最後は「受け入れるしかない」というところに落ち着いてしまう。
人は完璧に他人を理解できるわけじゃないし、私もまた、誰かの負担を見落としていることがあるのだろう。
そう思うと、この小さなすれ違いも、人間らしいことのひとつなのだと思えてくる。

