会議や打ち合わせで、「一旦こういう前提で考えてみようよ」という言葉が出ることはよくある。
とりあえず前に進めるために、仮でね。
そんなニュアンスで始まる。
しかし、話が進むにつれて、その“仮”はいつの間にか”絶対に動かせない前提”に変わっていく。
こういう経験をしたことがある人は、少なくないはずだ。
「仮で進めよう」は、“心理的な罠”
例えば、誰かがあるプロジェクトのリーダーをやるという“仮の前提”が置かれたとする。
「仮に、〇〇さんがリーダーとして考えてみよう」
「一旦、この前提で話を進めてみよう」
その人は、置かれた前提を聞いてこう言う。
「その役割は、私は難しいです」
「その前提は、私は受け入れられません」
普通なら、ここで前提を見直すはずだ。
でも、実際には違う。
「まあ、仮だから」
「とりあえず、リーダーを仮定しないと話が進まないから」
こう言われて、話はそのまま進んでいく。
そして、議論や体制や計画が“仮の前提”の上に積み上がっていく。
こうなるともう戻れない。
仮の前提を覆すことは、話が進めば進むほど、どんどん難しくなる。
その結果、本当は受け入れられないはずの前提を、受け入れざるを得なくなる。
どうしてこうなるのか
私は、こういう場面を何度も見てきたし、自分自身が当事者になったこともある。
その経験の中で、「なんとなく、こういう構造なんじゃないか」と感じていることがある。
あくまで私の仮説だが、場がこういう進み方をしてしまう理由は、次のような流れで生まれているのだと思う。
①「とりあえず進めたい」という集団の本能
会議や打ち合わせの場では、とにかく“前に進んでいる感”が欲しくなる。
- 何か決まった
- 形になった
- 成果があった
こういう「進んだ感」が場の安心につながる。
だから、仮でもいいから前提を置いて進めたいという空気が自然に生まれる。
② 前提を置くと、場が安定する
前提がない状態は不安定だ。
- 何を基準に話せばいい?
- 誰が中心?
- どこに向かってる?
こういう不安が場に漂う。
だから、 仮でもいいから前提を置く。
すると、場が一気に安定する。
人は安定を好む。
だから、仮の前提が置かれた瞬間、場は安心する。
③ 場の安心は、前提の固定化を生む
仮の前提の上に話が積み上がると、 場はどんどん安定していく。
- 方向性が見えた
- 議論が進んだ
- 形になってきた
この「進んだ感」が場の安心を強める。
安心が強まるほど、前提を変えることが“場の不安”になる。
④「場の安心を壊す人」になりたくない
ここが一番大きい。
前提を変えようとする人は、 場の安心を壊す存在に見えてしまう。
- 面倒を増やす人
- 空気を乱す人
- 進行を止める人
- せっかくの積み上げを壊す人
誰もそんな役をやりたくない。
だから、本当は受け入れられない前提でも、「まあ、やります」と言ってしまう。
私は、この進め方が好きではない
こういう進め方は、誰かの悪意で起きているわけではないと思う。
場が安心を求め、進んでいる感を求め、面倒を避けようとする。
その自然な反応が積み重なった結果、“仮の前提が既定路線になる”という構造が自然に生まれるのだと理解している。
ただ、私はこの進め方があまり好きではない。
なぜなら、仮の前提に置かれた当事者に負荷が偏るだからだ。
受け入れられない前提を飲み込み、場の空気を壊さないために沈黙し、罪悪感を避けるために「やります」と言う。
その当事者が重い役割を背負い、場は「進んだ感」を得る。
私は、その“不公平さ”がどうしても好きになれない。
そしてもう一つ。
こういう進め方は、場の都合が優先されて、当事者の気持ちが置き去りにされることがある。
その置き去りにされる感じが、私は苦手だ。
さらに言えば、当事者が納得していない前提で進めるのは、組織としても健全ではないとも思う。
無理をして引き受けた仕事は、どこかで歪みが出ると思う。
そして、その歪みは、結局は場全体に返ってくると思う。
だから私は、「仮で」という軽い言葉で、 誰かの負荷を見ないようにして進めていくやり方は、好きではない。
まとめ
こういう場に何度か立ち会ってきて思うのは、人は、場の流れや空気の前ではとても繊細な生き物だということだ。
合理性よりも、正しさよりも、本音よりも、その場の空気のほうが強く働くことがある。
人は、場の安心を守るためなら、 自分の本音を飲み込むことがある。
これは、 “場を守ろうとする優しさ”だと思う。
誰かが無理をしてくれることで、場がなめらかに進むことがある。
でも、その裏側に、誰かの無理が隠れていないかは、いつも気になっている。

