会議の中で、「やるべきこと」が決まった。
でも、 誰がやるのかは決まらないまま会議が終わる。
これ、あるあるなのではないだろうか。
期限が近づくと、沈黙がざわつきはじめる
誰もやらないまま時間が過ぎて、 期限が近づいてくる。
そのとき、 責任感のある人がそっと口を開く。
「これ、どうします?」
その瞬間、 空気が変わる。
「じゃあ、お願いできますか?」 という流れが、 ほぼ自動的に立ち上がる。
不思議なことに、 「どうします?」と言った人が、 そのまま担当になる。
言った瞬間に、 “やる人”として扱われる。
「誰がやります?」 と言っても、結果は同じだ。
「じゃあ、お願いできますか?」 という流れになる。
つまり、 現状を動かそうとした人が担当者になるのだ。
責任感のある人は、放置できない
もちろん、ずっと放置しておくわけにはいかない。
納期がある。
他の作業にも影響する。
誰も動かないまま手遅れになっては大変。
だから、責任感のある人は動く。
「このままじゃまずい」
そう思って、 声をあげる。
その瞬間、 担当者になる。
誰が言い出すか。
誰が動くか。
これは、我慢くらべのようだ。
責任感のある人は、放置できない。
だから、責任感のある人が消耗することになる。
これは、どう考えても変だ。
なぜ会議で担当を決めないのか?
本来なら、やるべきことが決まった時点で、 担当者も同時に決まるべきだ。
「誰がやるか決めないまま会議が終わる」なんて、普通に考えればおかしい。
でも現実には、なぜかそれが起きる。
やるべきことを決めるのは簡単だ。
でも、誰がやるかを決めるのは、衝突の可能性がある。
「なんで私が?」という空気になるかもしれない。
不平不満や反発があるかもしれない。
だから、会議の場では誰もその火種に触れたくない。
担当者を決めないまま終われば、
- 誰も不満を言わない
- 会議が平和に終わる
- その場の空気が乱れない
つまり、短期的なメリットが多いのだ。
担当者を決めないまま終わるほうが楽なのだ。
担当者が決まらない会議は、この“短期的な平和の優先”の結果なのだと思う。
そして、 ここが一番皮肉だ。
担当者を決めないまま終わっても、結局、責任感のある人が拾ってくれる。
責任感のある人が動くから、 担当者を決めなくてもなんとかなる。
みんなそれを知っているのだ。
責任感のある人がいるから、 担当者を決めない会議は成立してしまう。
これは、 本当に皮肉だと思う。
拾う側の私
私は「拾ってしまう側の人間」だ。
誰も動かないまま手遅れになるのが嫌で、声をあげてしまう。
「このままじゃまずい」と思ってしまう。
誰も言わないなら、 言うしかないと思ってしまう。
そして、いつも担当者になる。
変だと思っている構造に、 自分が巻き込まれていく。
これは、なんとも言えない苦さがある。
わかっているのに回避できないのだ。
担当者を決めないまま終わる会議は変だと思うし、その結果、責任感のある人が消耗するのも変だと思う。
でも現実には、変だと思う構造の中で、変だと思いながら動いてしまう自分がいる。
私はこの構造から抜け出せていない。
そして、正直に言えば、 抜け出せる未来もあまり想像できていない。
「変だ」と思う気持ちと、「動いてしまう自分」が、ずっと同居している。
まとめ
担当者を決めないまま終わる会議は、短期的な平和を優先した結果なのだと思う。
誰も悪者になりたくないのだ。
でも、それがわかったところで、私の中の「変だ」という感覚が消えるわけではない。
私は拾ってしまう側の人間だから、その構造に巻き込まれるたびに、苦さが積み重なっていく。
変だと思っているのに、動いてしまう。
誰も動かないまま手遅れになるのを見ていられないからだ。
そして、自ら負担を背負いに行く。。。
たぶん、これからもそうなのだろう。
でも、もしかしたら、いつかこの伏線が回収される日がやってくるのかもしれない。
昇華できる日が訪れるかもしれない。
その可能性は、手放さずに持っておくことにする。

