私は長い間、職場で“忖度”をしていた。
上司の気持ちを読んで、先回りして動く。
相手が望んでいそうなことを察して、行動する。
それは社会人として普通のことだと思っていたし、むしろ「できる人ほどそうするものだ」と信じていた。
こういうのは”気遣い”という言葉がしっくりくるかもしれない。
でも、私がしていたのはただの気遣いではなく”忖度”だった。
気遣いよりももっと複雑で、もっと厄介な構造だった。
上司は“お願い”という形を取らなかった
私が忙しいことは、上司も十分わかっていた。
むしろ、誰よりもそれを理解していたと思う。
だから、上司は“お願い”という形を取らなかった。
代わりに、こんな言葉をよく言われていた。
「この案件の担当者は、こういう人じゃないと務まらないんだよね」
「この仕事って、こういう視点がないと難しいんだよね」
「うちのチームは、ここが弱いと思うんだよね」
「本当はもっとこうしてほしいんだけど、誰もやってくれないんだよね」
それは指示ではなかった。
その言葉の裏には、“本当はあなたにやってほしい” という気持ちが確実にあった。
私はそれを読み取って行動に移していた。
依頼よりも強い圧力
それは依頼ではない。
でも、依頼のように聞こえる。
むしろ、依頼よりも強い圧力を持っている。
私はその圧力を受け取って動いていた。
頼まれていないけれど、やる。
指示されていないけれど、進める。
言われていないけれど、整えておく。
すると上司はこう言う。
「ありがとう、助かったよ。」
その言葉を聞くたびに、胸の奥がざらつくかんじがあった。
助かったのは事実だと思う。
私が忖度してやっていたことは、いつも”やったほうがいいもの”だった。
私もそう思ったからこそやっていた。
でも、私は指示されていない。
依頼されてもいない。
ただ、上司の言葉の“裏側”を読み取って動いただけだ。
だから、動いた瞬間にそれは 「私が自分で判断して、私の責任でやったこと」 になる。
忖度の問題点
やったほうがいいことなのに、やるべき形で依頼されない
問題はここにあると思う。
今思うと、上司は、私が忙しいことを知っているからこそ、本音を言えないまま仕事を進めていたのだと思う。
「本当は頼みたい」
「でも負担をかけたくない」
「断られたら困る」
「だから遠回しに言うしかない」
その状態は、上司にとって、不安定だったと思う。
指示したわけではないから、私がどこまで動いてくれるのかもわからない。
どこまで期待していいのかもわからない。
これは上司にとってもストレスだったはずだ。
それに、遠回しに伝えるということは、上司自身が自分の本音を抱えたままになるということだ。
つまり、私が忖度して動くことで、上司は助かるけれど、救われてはいなかったと思う。
そして私は、頼まれていないのに動いて疲れていく。
誰も得をしていない。
そのことに気づいた時、私は「忖度は意味がない」と思った。
気遣いと忖度の違い
気遣いなら、まだ健全だ。
「相手が困っているから助ける」
「相手が忙しいから手を貸す」
気遣いとは、そういう、対等な関係の中で生まれる行動だ。
でも、私がしていたのは違った。
私は、上司が言えない本音の穴を埋めていた。
上司が抱えている「頼めない」という葛藤を、私が勝手に補っていた。
その結果、私は自分の時間と労力を差し出し続け、上司は「頼めないまま助かる」という構造に縛られ続けた。
これは気遣いではなく、関係性の歪みの中で生まれた“忖度”だったと思う。
まとめ
忖度は、優しさではない。気遣いでもない。
忖度は、誰も幸せにしない。
忖度を続けることで、私は自分をすり減らし、上司は本音を言えないまま不安定な関係に縛られていた。
気遣いは相手を助けるけれど、忖度は”相手の葛藤を代わりに背負う”行為だ。
その結果、どちらも健やかではいられなくなる。
気づくまでには随分と時間がかかったけれど、気づいた今は、もう二度と同じことはしないと自信を持って言える。
自分の時間も、労力も、感情も、誰かの“言えない本音”の穴を埋めるために使わなくていい。
忖度を手放したことで、私はようやく、自分の気持ちを基準に動けるようになったように思う。

