当時の上司は、よく悪口を言う人だった。
誰かの業務態度や仕事を進める上での能力について、ぽつりぽつりと不満をこぼす。
そのたびに私は、なぜか自分が頑張らなきゃいけない気持ちになっていた。
今思うと、それは少し不思議な反応だ。
でも当時の私は、その反応を「不思議だ」と思ったことは一度もなかった。
悪口を聞いて自分が頑張ろうとすることが、あまりにも当たり前になっていた。
理由を考える必要性すら感じていなかったし、「どうして私は頑張ろうとしているんだろう?」と疑問を持つ発想もなかった。
ただ、自然とそうしていた。
悪口を“警告”として受け取っていた
悪口を聞くと、背筋が伸びる。
「こうならないように気をつけなきゃ」
「自分は悪く言われないようにしなきゃ」
そんなふうに思うことが、日常の一部になっていた。
今振り返ると、私は悪口を“警告”として受け取っていたのだと思う。
上司が誰かの悪口を言うということは、その人の欠点が語られるということだ。
その瞬間、私は心のどこかでこう感じていた。
「こういうことをすると嫌われるんだ」
「こういう態度は評価されないんだ」
「こういうミスをすると悪口の対象になるんだ」
その“評価の軸”を受け取ってしまい、 その軸に合わせようと行動を調整していた。
当たり前になっていた“過剰な頑張り”
でも、当時の私はそれを「頑張りすぎている」とも「無理している」とも思っていなかった。
ただ、自然にそうしていた。
悪口を聞くと頑張る。
それが自分の中で当たり前になっていた。
心理学では、人は集団の中で排除されることを強く恐れると言われている。
人は、仲間外れにならないように、評価される側の人に合わせようとする。
この反応は「社会的排除の恐怖」と呼ばれるようだ。
私はまさにその反応をしていたのだと思う。
悪口を聞くと、次は自分が言われるかもしれないという不安が、無意識に働いていた。
気づきはみ重ねの中で訪れた
そのことに気づいたのはずっと後になってからだ。
特定のきっかけがあったわけではない。
誰かに指摘されたわけでもない。
ある日突然「気づいた!」という瞬間があったわけでもない。
いろいろな経験が積み重なって、上司の悪口を聞く場面が何度も続いて、その中で、いつのまにか「あれ?」と感じるようになった。
私は自分がずっと無駄な努力をしていたことを理解した。
そのことに気づいた今思うことは、もしかしたら、上司は悪口を言うことで、 無意識に私や他の同僚を支配していたのかもしれないということ。
悪口を聞かされると、私はその“基準”に合わせようとする。
その結果、上司の機嫌や評価に合わせて行動するようになる。
つまり、悪口は“行動をコントロールする道具”になっていた可能性がある。
それが意図的だったのか、 ただの癖だったのか、 上司自身が気づいているのかいないのか、 それは上司本人にしかわからない。
ただ、結果として、私は巻き込まれていた。
悪口に合わせて自分を変え続けていた
悪口を聞くたびに、私は自分の行動を見直し、修正し、気を張り続けていた。
上司の評価に合わせて、自分を変え続けていた。
その結果、私は必要以上に頑張りすぎていた。
あの時の自分にこう言いたい。
「悪口はあなたへのメッセージじゃないよ」
「誰かの欠点を聞いて、自分を変える必要はないよ」
「あなたはあなたのペースで仕事をしていいんだよ」
悪口を聞かされると頑張ってしまう理由は、 “自分が悪口の対象にならないように”という無意識の防衛だった。
その防衛は、私を守るためのものだったけれど、同時に私を疲れさせてもいた。
まとめ
悪口を聞いて背筋が伸びてしまうのは、弱さではない。
ただ、自分が傷つかないように、評価の外に追い出されないように、無意識のうちに身を守ろうとしていた反応だった。
その反応は、当時の私を守ってくれていたのかもしれない。
でも同時に、必要以上に自分を追い込んでしまう原因にもなっていた。
誰かの悪口を聞くたびに、「こうならないようにしなきゃ」と自分を締めつけていた。
そのたびに、少しずつ疲れが積み重なっていった。
今ならわかる。
悪口は“自分の行動を修正するための信号”ではない。
誰かの欠点を聞いたからといって、自分を変える必要はどこにもない。
自分を守るために頑張りすぎていた過去の自分に、そっと肩の力を抜いてほしいと思う。
悪口に合わせて生きなくていい。
誰かの評価の軸に合わせて自分を削らなくていい。
自分のペースで、自分の基準で、淡々と進んでいけばいい。
そう思えるようになった今、 少し生きやすくなった気がしている。

